大学の頃、友達に招待されないと入れないSNSに入った。
ほとんど初めてのSNSアカウントであり、現実の自分と最もリンクしたアカウントである。
ここでは、Mと呼ぶ。
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Mのプロフィール画面には、友人からの紹介文が掲載される。
紹介文は任意なので、掲載されるされない、掲載数もまちまちである。
私は当時、友人として承認された数、紹介文の数が、人間関係における格付けだと思っていた。
周りが何十何百と承認数得ているのを見て、私は自分の少なさに焦りを感じた。
だが、増やし方が分からない。
「Mやってる? 承認し合おうよ」
これは私にとって、男性に連絡先を尋ねる並のハードルの高さだった。
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紹介文とは、どんな感じだったかというと。
『○○は、高校からの最高の親友☆
高3最後の試合は、マジで泣いた。
卒業しても、一緒に遊ぼうね♪』
『△△ちゃんは、本当に素敵な子。
凄く面白いし、勉強家であり、努力家。
そして、とても相手のことを思いやれる、気遣いのできる子。
こんな子、初めてです』
※文章はイメージです。
このような友人のプロフィール画面に載ってる紹介文を読むと、私は
「○○とこの子は親友同士。
つまり、○○にとって私は親友ではない」
「△△は思いやりがあって、気遣いできる子だけど、私は思いやりがなくて気遣いができない」
という、謎のネガティブ思考を発揮する。
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これは紹介文に限らず、友人、親族、職場同僚・上司等々。
誰かが誰かのことを言うとする。
それを聞いた私は次のように断定する。
『○○ちゃんは美人よね』
→「私はブスである」
『あの子はよく頑張っているし、気が利く』
→「私は頑張っていない。気が利かない」
『あいつはどんくさい奴だ』
→「私もどんくさい奴と思われている」
この思考回路は、無意味に自分へダメージを与える以外、何の効果もない。
ダメージにいよいよ耐えられなくなった私は、20代の頃、自主的に有料カウンセリングを受けた。
カウンセラーから言われたのは一つだった。
「あなたは全ての物事を最後は自分のせい、自分が悪いと思い込むクセがある。
しかし、物事はそうであったという事実だけで、あなたとは関係ない」
そしてカウンセラーは、カウンセリングの数を重ね、思考のクセを意識的にコントロールする訓練をすることを薦めてくれた。
結局私はその一回しか行かなかったが、思考の傾向を指摘されただけでも、今思えば収穫があった。
そして、何より、
心が辛くなったら、カウンセリングに行くのも一つの方法、と行動の選択が増えたことが大きい。
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紹介文に話を戻すと、私は学生の頃、Mをやっている友人に、自分は紹介文を書いてもらえないと、ぼやいたことがある。
友人は「そんなの関係ないよ~。たまたまだよ」と言ってくれた。
そんな友人のプロフィール画面には、沢山の紹介文が掲載されている。
そう、気にすることではないのだ。
でも当時の私は、こうぼやいたにも関わらず、友人から紹介文をもらえなかったことに、落ち込んでいた。
思えば、学生の頃は、落ち込んだときに「落ち込んでます」とSNSに発信していた。
優しいコメントを頂くことも出来たが、結局良い発信でもネガティブ発信でも、反応の程度は変わらなかった。
今私はSNSで落ち込み内容を発信していない。
使い方は人それぞれだが、私にとってそれは恥ずかしいことと思っているからだ。
その代わりのツールが、このブログである。
改めて、はてなブログ様に感謝しよう。